私の仕事観を変えた、ある理科教師の言葉
こんにちは。みずなさくらです。
エントリー2弾目は、何をテーマにしようかと考えながら1日を過ごしていました。
自分の行く先を考えあぐねる毎日なので、今ライターとして生きることになった、おそらくきっかけであろう、ある中学校教諭の言葉を振り返ろうと思います。
毎日一生けんめい、必死に仕事をしていても、誰かの何気ないひとことで衝撃を受けることがきっとあると思います。当時、立派な教育者になりたいと思っていた私でも、簡単にその後の人生を考え直すような言葉でした。
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大学を卒業したての23歳。
ある大阪の中学校に臨時講師として配属された私は、中学3年生の障がいを持つ生徒の担任となりました。
いわゆる、特別養護支援学級というものです。
言葉を発しない自閉症の男の子。
重い知的障がいをもつ女の子。
脳性まひで車椅子に乗り、全介助を要する女の子。
一人ひとりが別々の障がいを持ち、配慮しなくてはいけないこともそれぞれに異なっていました。
簡単なことばで、順を追って、ていねいに、そして筋が通るように話してあげなくてはいけません。
急な時間割変更があると対応できずに、泣き出したり自分の頭をぶったりの自傷行為などパニックに陥ります。
他にも挙げるとキリがないのですが、未熟な私は、言い方はとても悪いですが社会的弱者とも言える彼らに「できないことを代わりにやってあげよう」と一生けんめい世話を焼いていました。
当時は、そんな驕り高ぶった考えでなく、単純に奉仕の精神からの行動でした。
彼らの身の回りをサポートしてあげることで、働いている気になっていたのです。
3学期になり、卒業式のリハーサルが本格化し始め、3年生は卒業の歌を練習し始めます。
学年主任をはじめ、各クラスの担任もこぞって「大きな声で」「もう1回」と繰り返し繰り返し同じ歌を歌わせる毎日。
当然、めんどうなことを嫌う中学生はだらだらとします。
学年全員を同じ場所に集めるのも一苦労。
座らせる。
じっとさせる。
お喋りをやめさせる。
歌わせる。
そのたびに注意して、怒って、注意して……
生徒と教師の我慢比べのような感じです。
ある日、多目的室でいつものように卒業の歌の練習がありました。
卒業式まであと1週間もなかったと思いますが、生徒たちはそんな実感も緊張感もまるでありません。
そんな生徒たちに放った、理科の先生の言葉が私の心をも強く打ちました。
「君たちが卒業したら、俺はもう関係ない。また次に担当する生徒の指導に取り組むだけだ」
前後の流れがないと、この言葉の意図は伝わりづらいかもしれませんが、彼の言いたいことを私なりに解釈したら以下の通りです。
——嫌なことから逃げるのは簡単。何を言われても深く考えずに見て見ぬフリをすればいいのだから。ただ、教師はそんな生徒がいれば全力で向き合う。なぜならそれが教師の仕事だから。でも、生徒と教師である関係が終われば、その仕事も終わりである。今後の人生、自分自身に最後まで付き合っていくのは自分以外にいない。嫌なことから逃げる自分からはいつまでも逃げられない。
上手くまとめられないのが悔しいのですが、つまり生徒のために先生が一生けんめい、全力でぶつかるのは、それが「仕事」だからなのです。
教師は、中学校生活たった3年間しか時間を共有できず、その間に「何かしてあげる」のではなく「その後の人生を生きるための知恵や考え方」を養うための指導をしなくてはいけない。
なぜなら、いつまでも生徒に寄り添うことは不可能だから。所詮は他人なのです。
その言葉を聞いて、障がいを持つ生徒たちに「世話を焼く」という私の行為は、長期的に考えると彼らのためにはならないことに気付かされました。
人の世話がしたいのなら、介護職に就けばいい。
誰かの役に立ちたいなら、看護師になればいい。
私のしていたことは誰かを正しい道へと導く教育者とはほど遠い、自己満足でしかありませんでした。
彼らにすべきだったのは
その場を上手くやり過ごすための方法ではなく、周りの生徒に健常者のように馴染ませることでもなく、
支援が必要である旨を自分自身の力で伝えていくこと
自分の力でできることを自分から進んでできるようになることでした。
私は彼らの「現在」しか見ておらず、いつかは大人になり社会に出ていくことを想像もしていなかったのです。
そのことに深く反省し、「社会に出るための力」つまり「生きる力」を定着させることを心がけ、新たな気持ちで教育現場に立つことにしたのでした。
その後、教師を辞め、ライターになるにはもうひとつ、きっかけがありました。
続きは次回のエントリーで書きたいと思います。